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姓名判断歴史シリーズ:秦の始皇帝

姓名判断歴史シリーズ:秦の始皇帝1
世界の中で、アメリカに次いで経済国ナンバー2となった中国。
その中国は、国土面積においてはロシア、カナダに準じて世界3位で、アジア最大の国です。

今日は古代の中国について。
現代の中国国土の原型、いわゆる中国国土の基礎を築いたのは、中国史上初の統一王朝の秦:しん(紀元前221-紀元前206)の時代にさかのぼります。

中国を統一した秦の王である嬴政(えい・せい)は、史上初めて「皇帝」を名乗ったので、『始皇帝』と呼ばれています。

秦時代の治世は僅か十五年ながら、中央集権国家で官僚制を導入し、国家単位での貨幣や計量単位の統一、道路整備など、国としての統一をもたらしました。
また、法の統治を徹底し富国強兵が実現し天下統一を果たしましたが、その法律の厳しさゆえに始皇帝の死後、国内が混乱し反乱がおきます。やがて数多くの諸侯が立ち上がり、その中から後に「漢」の国を興す劉邦(項羽と劉邦など)があらわれます。

また秦は、始皇帝、始皇帝の子、そして孫(諸説あり)の三代で滅亡します。
万里の長城(万里の長城の原型)や大規模な灌漑(かんがい)工事、始皇帝陵、兵馬俑など現在にも歴史遺産として残されています。

始皇帝の名前と運勢

始皇帝の名前の変遷は、樹門流姓名判断としては以下のように考えています。
始皇帝の元名である本名は“趙政または嬴政”でどちらも正しいとされています。
事実、趙政として生きていた時代、嬴政としていきていた時代があるようなので、どちらの運勢も実際にはあるはずです。

氏と姓
代々の秦の王の“姓”は「嬴(えい)」というのはわかっていますが、「趙」が“姓”か“氏”なのかで、若干運勢の比重は変わるのかもしれません。
以下、わたしなりの氏と姓の解釈となります。
現代では氏と姓は一緒くたにされていますが、本来は“氏”は親族集団、血筋をあらわす名でした。“姓”は居住地や職業、一族の中の社会的序列などによってつけられた名です。
その中国の考えが5・6世紀の古代日本に位秩序を維持するために日本風に導入されます(氏姓制度)。
ほどなくそれは形骸化され、江戸時代まではその名残をとどめます。
たとえば、徳川家康の徳川は「姓」ですが、氏は「源」です。実際に家康は公的文書には“源家康”と書いています。なお、源氏、平氏といわれるのはその所以です。
しかし、始皇帝からはるかに時代が下った、家康の時代になると徳川の「姓」の運勢の方が濃厚に支配していると樹門流姓名判断では解釈をしています。

姓名判断歴史シリーズ:秦の始皇帝2

では実際の始皇帝の運勢です。
【1】『趙政』の運勢は革新性の運勢(隔離型:H型)
【2】『嬴政』の運勢は養子相の運勢(上下型:D型)
※ちなみに「始皇帝」という名は次代が絶家代という継続性がない名です。

【1】と【2】は正反対の要素を持つ運勢なのですが、その二つで始皇帝の運勢は成立していると考えてください。
始皇帝は敵国の趙で人質の子として生まれ、そのまま趙で人生を終える予定でもあったので、最初の名が『趙政』、のちに晴れて自国に戻ることができ『嬴政』という名の変遷経由にて始皇帝の運勢は完結するとします。

【1】革新性の運勢(隔離型タテ系:H型aタイプ)
【2】養子相の運勢(上下型:D型)

【1】の運勢は一言で言えば、夢、ロマンの人生運です。なお、頭脳性は科学合理的とみます。
目指しているものは、携わった世界の第一人者とか権威者となり、その世界で覇者として君臨し、権力や支配権を握ることです。
また長い歴史で培われてきた習慣や文化遺産も「ふん、そんなもの!」と言って否定するところがあります。

頭を押さえつけられたり、干渉や束縛されることが大嫌いな運勢です。
つねに、自分は一番であり、偉い人で威張りたいという天上天下唯我独尊の潜在意識があります。
あまりに自負心が強すぎて、素直さや謙虚さが欠如していて、そのアクの強さが善用されると、文字通り世の中が抱えている矛盾や惰性に思い切ったメスを入れ、世の中を刷新するほどの大改革や改善ができます。

始皇帝の歴史的な偉業はこの運勢の影響が強いと考えています。
この運勢は徳川家康、足利尊氏、源頼朝と同じ運勢型です。中国では唐の李世民、宋の趙匡胤、明の永楽帝、毛沢東もこの運勢となります。

運勢型とは?
運勢型は運勢を的確にとらえた運勢の器の名称のようなものです。それはみなさんの姓と名の名前から判断することができます。
それは個性であり、その個性が引き起こす人生そのものの種類をあらわしています。
「運勢型」が違えば、使命や人生の目的、性質、人生、運勢はすべて異なります。
その運勢は祖父母や父母からの感情が遺伝することによって伝わります。

次に【2】の運勢は『養子相』といって、主体性は他人にあり受け身となる運勢でもあります。自らが望むことと、天が授ける環境に大きなハンディがあり、最劣勢の条件で生きなければならない宿命があります。

実際の始皇帝の幼少時代は常に死と隣り合わせの人質生活で、父母そして始皇帝も人質で、途中父だけが敵国から脱出、始皇帝も母と一緒に脱出するまでの数年間は敵に追われ続ける毎日を送ったといいます。
ちなみに、このことが始皇帝の猜疑心が強く、人を信用しない人格を形成したと言われています。

出発点はプラスではなくマイナスの要素だけが目につきます。
まさに風前の灯のような境涯です。これは【2】の運勢が示す内容のままの人生であると言えます。
始皇帝は【1】と【2】の運勢で構成されていると判断するのです。

史実と占術の観点

姓名判断歴史シリーズ:秦の始皇帝3
中国史上、始皇帝は最大な権力を持った人です。2200年前に身分や出身も問わず、能力があれば採用する人事法をみるに強烈な先進性をも持っています。
始皇帝の性格は合理的な考え、また残忍さをよく指摘されます。

残忍さをいうと、当時秦王だった時代に小国「燕(えん)」という国から刺客がやってきました。しかし始皇帝暗殺は失敗に終わります。
怒った始皇帝は燕の国都を滅ぼし、刺客の一族を皆殺害しても怒りは収まらず、町の人も全員虐殺してしまいました。

その一方で繰り返しにはなりますが、身分を問わず他国でも優秀な人材を採用、また法家(法律学者)の助言を受け入れて、政治面から王に権力が集中できるよう、軍事面から他国を圧倒して合理的に国を繁栄させようとします。徹底した合理性ゆえに強国になったのです。

名の変遷の理由

結論としては、【1】ないし【2】の名前の変遷に始皇帝の偉業の理由が隠されています。名の変遷にも意味があるのです。
【1】と【2】をもつ2つの運勢は本来相性が生じやすくなります。それが男女間であれば俗的に赤い糸の相性といえる間柄にもなりやすいものです。

しかし、始皇帝の名の変遷は【1】の運勢と【2】の名を“一人”で相性を抱えていることとなります。
するとすべてにおいて自己完結ができる強い決断力をもって世に向かう運勢に変わります。さながら一人でも生きていける強固な性格で人生を歩むのです。
これを自活運と呼び、強く逞しい性格になります。

始皇帝の先祖の事情

【1】と【2】の2つの変遷の因縁は、母方の祖母が誰からも助けてもらうことなく『孤立無援』であった事実をもあぶり出します。

  1. 世間や身内からも白い眼で見られ、底辺を味わった。(【1】の趙政の運勢)
  2. 子を捨ててきてその子を不憫に思った。(【2】の嬴政の運勢)
  3. 誰も助けてはくれず孤立無援であった。(【1】【2】をあわせもつ運勢)

これらすべての既成事実が始皇帝の名の変遷を導いたと。遺伝の仕組みは、祖先が経験して忘れてはならない記憶や感情が、今度はそれが生き抜く方策として子孫に受け継がれます。

祖先が抱いたマイナスの感情を二度と味わないように、それを受け継いだ子孫は、生き残るために祖先の行動・思考パターンとは逆の作用、つまりまったく違う人生を自然とねらいます。
運勢は痛手が大きければ大きいほどゆり戻そうと、しかし今度は行き過ぎて正反対に向かうような現象が起こりえます。

つまり、始皇帝の祖父母が劣勢でもがき苦しんだ結果が、彼をして天下を取るほどまでの能力や実力、または運を形成することができたと考えられるのです。
逆説的な言い方にはなりますが、始皇帝が天下人になるためには、祖父母、あわせて父母も含めた直近の先祖は言語に絶する辛辣過酷な人生を送らねばならなかったとも言えるのです。

ちなみに父方の曽祖父(昭襄王)は王としての在位期間も長く秦を大きく発展させましたが、その影で祖父(孝文王)は皇太子期間が長く、王になって三日後に亡くなります。
そして父(荘襄王)は長い人質生活から突如幸運的に秦の王になるも三年で死去。祖父と父は不遇な劣勢な人生を送ったように見えます。母も幼き始皇帝と逃亡生活を経て帰還後、紆余曲折があっての薄幸な人生と見えなくもありません。
運勢は遺伝で伝わります。感情の遺伝子は強く反動して、始皇帝の天下人の器量を充分にもつ運勢をつくっていったと考えます。

秦の滅亡の理由

姓名判断歴史シリーズ:秦の始皇帝4
次に秦が滅亡した理由を考えます。
始皇帝の名前の変遷をもう一度確認します。

  • 【1】革新性の運勢(隔離型タテ系:H型aタイプ)
  • 【2】養子相の運勢(上下型:D型)

始皇帝が継続する名前であれば、秦はその後三代で終わらず、もっと続いていたことでしょう。その理由は名前の変遷した順番にあったと見ています。
それは最後の名前(運勢)が【2】であったことが原因となり、三代で終わらせたと解釈します。

その理由を徳川家康と比較できます。
家康の死後、260年も徳川家はつながり、現代も徳川家は存続しています。
彼も幼少期の松平竹千代から最後の徳川家康へと名前が変遷しています。
家康の運勢の構成も始皇帝とほぼ一緒と言っていいですが、始皇帝の名の変遷は【1】から【2】ですが、家康の変遷は【2】から【1】で順番が逆になっています。
この差がとても大きいと捉えています。

【2】の名は最後の大花火のような栄華をもたらす名前であるとも解釈できます。
始皇帝の曽祖父が「秦」を大国へと押し上げた全盛期をつくり、祖父、父の人生は冷遇でしたが、始皇帝が「秦」の絶頂期を創出しました。
そして彼の孫の代で一族は断絶していますが、このような状況は日本でいうところの平清盛に比例できます。

平清盛で有名な平氏は、祖父と父、孫である清盛で平家の絶頂期を迎えます。
清盛、その子と孫の三代で源平合戦にて平氏一族は滅亡してしまいます。清盛は反平家の“のろし”が上がる中、一族を憂慮しながらも熱病(マラリア)で亡くなります。その後、源頼朝率いる源氏軍に徐々に追い詰められていき、最後は壇ノ浦で破れます。
始皇帝と平清盛はその後の一族の末路までが同じような一致を見るのですが、彼らの名前が、平清盛も【2】が最後の名前であり、共通点が多いのです。
最後のついた名前というのは本当に大切なのです。

始皇帝が家康のように最後の名前が【1】であれば、歴史のイフ(IF)にはなりますが、後世の中国の王朝の、漢や唐や清のように長く続いた可能性があったかもしれません。
始皇帝の不幸は最後の名前にあると多いに考えるのです。

始皇帝のエピソード

最後に始皇帝の健康に関するエピソードです。
樹門流占術では幸せな名前を定義しています。
それは、まず健康があること、次に生活ができる経済力があること、最後に愛情(親、夫婦、子)があること、これらがバランスよく継続する名前を幸せだと考えています。
そしてそのことが実現できる難しさも知っています。

始皇帝は天下統一を果たし名と実をすべて手に入れ、最後は不老不死を目指します。
名誉や財産を手に入れた人が次に何を望むのかを知る重要な歴史的な資料の一例です。

人間の欲の本質には健康、経済、愛情の不足を補うとする本能性があります。
始皇帝の猜疑心の強さから愛情は豊かではなかったと推測はできますが、少なくても自身の子供たちがいて、次期皇帝もされる大事な嫡子も存在していたので、そこは満喫していた可能性はあります。
次に経済面は天下統一を果たしておりますので、天下の名誉と天下のお金は自分の思う通りです。
しかし、“老い”は人間・生物である以上避けられません。彼の晩年は“健康”にだけ執着した生き様になります。

事実、不老不死を求めるために国内外の方々に遣いを送ります。その一つに当時弥生時代の日本にまで薬草を求め、日本に渡った人(徐福)の墓が現在の和歌山など各地にその伝承が残されています。
さらに、食事からも不老不死になろうと、現在は猛毒と知られる“水銀”まで食べたらしいですから、人間の欲望の無限性、その本質を感じざるを得ません。
樹門流姓名判断の良いところは、2200年前の人であろうと名前があればその人物像が浮き彫りになるところです。

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